HeartBreakerU 8
『君が……君が欲しいって言ってたのはこれだろう?』
おどおどした笑顔に差し出された絵本。
ふいに幼いころの記憶がよぎる。薫は表情を変えずに視線をそらした。
「出てこないよ。それこそ時間の無駄だ。行こう」
そういうと二人を促して薫は出口まで歩き出す。男たちは肩をすくめて顔を見合わせると、薫の後について出て行った。
倉庫の裏に停めてあったバンに乗り込む。
車が動き出すと、薫は頭痛をこらえて目を閉じた。
げんきなあかちゃんには この おくりものがいい。
かみさまにいわれててんしは『よくたべる』をあかちゃんにはこびました。
あかちゃんはよくたべる じょうぶなこどもに ……
いつもの習慣で絵本を暗唱する。
あいかわらず最後のあたりは思い出せない。薫はそのまま何度も心の中で暗唱を繰り返していた。
深夜のドラッグストア。
広い駐車場の片隅に一台の地味なセダンが停まっていた。しばらくすると黒の四駆が入ってきて、セダンから少し離れたところに停まる。
四駆から降りてきた長身の男の顔を確かめてから、セダンの運転手は助手席に置いてあった大きな袋を持つと車を降りた。
そして駐車場を横切り、立ち止まってこちらを見ている背の高い男の傍へと歩いて行く。
「どうも」
セダンから降りてきたスキンヘッドにTシャツとジーンズ姿の男にそう挨拶されて、沖田は微笑みながらうなずいた。
「こんばんは。こんなところまで来てくれてありがとう」
スキンヘッドの男が渡した大きなカバンを受け取り、沖田は礼を言う。そしてその場で袋を開けて中を確かめた。スキンヘッドの男は、沖田が確かめていくのを黙って見ている。しばらくして沖田は袋のジッパーを閉め、「確かに全部あるね」と言うと、ジーンズの尻ポケットから財布を取り出した。沖田が札を数えていると、いつも無口なスキンヘッドの男がふいに言った。
「……あんたたちを探しているという男たちが店に来た」
沖田は札を数えていた手を止めて、スキンヘッドの男を見る。
「ふーん。……それで僕たちを売ったりしたわけ?」
スキンヘッドの男は首を横に振った。
「この商売は信頼が一番だからそんなことはしない」
数え終えた沖田は、それを男に渡す。「はい、これ。言わないでくれたお礼にイロをつけといたから」
今度はスキンヘッドの男が札を数えだした。
「……かなり大きな組織みたいだ。あちこちから同じような話を耳にした。もうこの街には来ない方がいい」
感情を込めずに言うスキンヘッドの男の言葉に、沖田は小さく笑う。
「武器商人はそんなアドバイスまでしてくれるんだ?」
スキンヘッドの男は札を数え終えるとそれをナイロン製の小さなバッグに入れる。そして肩をすくめた。「お得意様だからな。アドバイスは特別に無料にしとくよ」
沖田は今度は声に出して笑った。
「……ありがとう。実は今夜はもう一件頼みたいことがあったんだ。パスポートを二冊手に入れられる?僕のと……あと車の中にいる彼女の」
スキンヘッドの男は小さくうなずいた。
「俺はやっていないが扱ってるやつは紹介できる。写真があればそいつに渡りをつけてやるよ」
「ありがとう。じゃあ連絡を待ってる」
そう言って、二人は別れて再びそれぞれの車に乗り込んだ。スキンヘッドの男が乗ったセダンが駐車場を出ていくのを確認して、沖田も四駆のエンジンをかける。
「終わったんですか?」
助手席の千鶴が、後部座席に頬りこまれた大きなバックを見て沖田に聞いた。沖田はハンドルを切りながら頷く。
「うん。もう一回さっきのヤツと取引をしたらこの街を出ようか?薫たちがうろちょろしてるみたいだしね」
この東北の地方都市の裏社会では情報があっという間に広がるのだろう。スキンヘッドの男は、まあ商売だからある程度は信用できるだろうが、早くこの街から出た方がいいのは確かだ。
綱道コーポレーション現社長の大久保が、港にある使われていない倉庫で何者かによって射殺されたという事件は、千鶴も沖田も知っていた。
山荘でいつものように沖田が情報を集めていたらそのニュースが飛び込んできたのだ。地方都市の中堅企業の社長の死は、たとえ射殺という特異性があったとしてもそれほど大きなニュースではなく、地方テレビ局のローカルニュースで一度流れたきりだったが、千鶴にとってはかなりショックな出来事だった。
当然ながら最初によぎったのは薫の組織だ。
そういえば大久保の死亡推定日時に大久保から千鶴の携帯に電話があったのだ。携帯電話の表示が大久保になっていたから何の疑いもなくでたのだが、通話口からは何も聞こえなかった。それで切ってしまったのだが……
多分あの時、きっと大久保はさらわれていたのだ。
青ざめ取り乱す千鶴を沖田が宥めた。沖田にしてみても、薫たちがそこまで強硬手段に出てくるとは思っていなかったので驚いた。病院で沖田が相手を殺し過ぎた、その報復かもしれない。
山荘で沖田が確認したかった暖炉の秘密の穴にも未来からの連絡は何も入っていなかったことだし、とにかく山から下りて街でもう少し情報を集めようと、沖田と千鶴は再び街へと戻ってきた。
もといたマンションは、当然ながらすでに薫の組織に見張られているだろうから戻れない。
沖田は街にある観光用の旅館に宿をとると、いつも武器を買っている店に連絡し夜に落ちあうことにして、こうしてここに出てきたのだった。
「この街から……」
「うん。海外にでも行こうか?」
「か、海外ですか?」
「そう。準備ができたらね。千鶴ちゃんどこがいい?」
物心ついたころからこの街を出たことがない千鶴にはわからない。
「私、海外旅行もしたことがないので……英語も苦手なんですけど大丈夫でしょうか」
薫たちに追われての逃避行だというのにどこか呑気な千鶴の答えに、沖田は楽しそうに笑った。
まるで観光地を巡る旅行をしているように、沖田と千鶴は街からそれほど離れない場所で旅館を転々と変えた。今日は三軒目の海が見える老舗旅館だ。三階にある和室の部屋の窓からは、ようやく薄暗くなってきた夕方の空に月がのぼっているのが見える。海と山のちょうど間あたりの中空に浮かんだ半月だ。
中秋の名月にはまだ早いが、湿気が抜けてきたので月がきれいに見える。千鶴が窓から眺めていると、後ろから沖田の声がした。
「温泉行かないの?」
旅館の浴衣を着た沖田が、千鶴の後ろから窓枠に手をかけて外を見る。
「月が出てるなって思って」
「ああ……ほんとだ。さすが観光地だけあって絵になるね」
「『日本』って感じですよね。沖田さんのいた未来にもこういう景色はあったんですか?」
沖田が吹き出した。
「そりゃもちろん。いくら羅刹でも気候や自然までは変えられないでしょ」
「そういえばそうですよね。たった二十年後ですもんね」千鶴も笑う。そしてふと思ったことを口にした。
「外国に行ったらもうこんな景色は見られないんですね」
沖田は窓枠に腕をかけたまま千鶴を見る。
「……寂しい? 日本を離れたくない?」
沖田からは来週には偽造パスポートが手に入るから、そうしたらすぐに日本を出ようと言われていた。千鶴は首をかしげて考える。
「どう……でしょうか。海外旅行もしたことがないんで外国に行ってみたい気はあります。でももう日本に帰れないかもしれないって思うとやっぱりそれは少し寂しいです。沖田さんはどうですか?」
「……」
沖田はしばらく考えるようにして外の景色を見ていた。
「僕は……」沖田はそう言うと、窓枠にかけていた腕をはずして千鶴に向き直り、肩をすくめた。
「僕は、結構本気で君以外なにもいらないからね。だから未来だろうと過去だろうと、日本でも外国でも君がいるのならどこでもいいよ」
沖田の言葉に千鶴はなんと返せばいいのかわからなくて黙り込んだ。こうも面とむかって……情熱的というか甘いというか、濃い言葉をさらりと言われると、あまりそういうことに慣れていない千鶴は未だに困ってしまうのだ。赤くなって黙っている千鶴の顔を、沖田は楽しそうに覗き込んだ。
「重い? でももう我慢してもらうしかないけどね」
「……重くなんかないです。その……わ、わたしも……」
私も沖田さんと一緒ならどこでも幸せです、と言いたいのだが恥ずかしくてなかなか言葉にできない。
顔を真っ赤にしながら口をパクパクさせている千鶴を見て沖田は笑った。
「何? 私も……続きを教えてよ」
「その……沖田さんと同じです」
「同じって?」
楽しそうに追い詰める沖田を、千鶴は睨む。「もう! わかってますよね?」
「ええ? わかんないよそんなの。君の言葉で言ってくれないと………」
笑いながら答えた沖田の言葉は、途中で途切れた。千鶴が見上げると沖田が眉間にしわを寄せ何かを耐えるような表情をしている。
「……沖田さん?」
「……ぐっ……!」
苦しげな声を漏らして崩れそうになる沖田を、千鶴は必死でささえた。
「どうしたんですか?どこか……」
「うぁ……!」
うめき声と同時に、沖田の茶色の髪が見る間に白く染まっていった。
「沖田さん…!?」
「……すぐに、治まる、から……!」
うずくまって痛みに耐えている沖田を見て、千鶴は全身から血の気が引くのを感じた。
のんびりと二人で月を眺めている暇なんてなかったのに……!そうしている間に沖田の命の火は羅刹の血によってどんどん燃やし尽くされているのだ。沖田の口ぶりではこの苦しみを何度も経験しているように聞こえる。
「沖田さん……血が欲しいんですか?」
「……欲しくなんか……欲しくなんかない! ……僕は、嫌だ。嫌なんだよ。血は要らない。狂いたくない……!」
「だから私に言わないで、一人で我慢を? どうして……そんなに苦しんでいるのに……」
「自分を……、理性を失ったら、僕は君を助けることが出来なくなる……!」
千鶴は泣きそうになった。何も言わずに一人で……。沖田はいつもそうだ。
「沖田さん、血を……私の血を飲んでください」
「大丈夫だよ、発作くらい我慢できる。僕はこんなものに負けるほど弱くない」
「全然大丈夫になんて見えません!」
青ざめた顔で無理に笑う沖田に、千鶴は叫んだ。そして部屋の隅に置いてあった自分のカバンの中から以前沖田からもらったジャックナイフを取り出すと、一気に手のひらに滑らす。
「あっ…!」
覚悟していたのにもかかわらず、熱い痛みに千鶴は思わず小さく声を上げた。沖田は窓辺にうずくまったまま肩で息をしてこちらを見ている。その目は千鶴の掌からしたたる血と同じくらい真っ赤だった。
「飲んでください」
「……」
千鶴が沖田の前に手のひらを差し出すと、沖田はまぶしそうに目を細めて千鶴の血を見た。そして彼は何も言わないまま恐る恐る手のひらへと顔を近づけ、流れ出た血にそっと舌をはわせる。傷口に触れて千鶴が痛い思いをしないように慎重に。
何度も何度も彼は血を舐めとり、千鶴の傷から流れ出る血もとまった。沖田は千鶴の掌を見たまま小さく溜息をつく。
「……ごめん」
不意の呟きに千鶴はうつむいた。
「……沖田さんが謝ることないです」
「でも、ごめん」
苦しげに言う沖田を、千鶴は優しく抱いた。まだ顔色が少し悪いけれど、髪と瞳は元通りに戻り発作もおさまったようだ。
「……今日は、もう休んでください」
沖田は素直に頷く。千鶴は彼の頬に優しく触れたあと、沖田を布団の方へと導いた。
発作の苦しみは千鶴にもわかる。あの痛みを、彼は何度一人で耐えたのだろうか。発作の間隔が短くなっていないか、発作の時間が長くなっていないか、狂い始めていないか……不安に彼は一人で耐えていたのだ。
発作で疲れたのか、布団の中ですぐに眠り込んでしまった沖田の寝顔を、千鶴は見つめていた。
知らず知らずのうちに涙が盛り上がり頬を伝う。
「沖田さん……」
薫たちから逃げて外国へ行って……それからどうすればいいのだろう? 逃げてばかりでは沖田の羅刹を治すことはできない。
千鶴は枕元で沖田の寝顔を見つめながら必死になって考えていた。